福島県大玉村、築250年の古民家での暮らしが始まった松本悠以さん。農業、建築、アートの3つがそろう場所を求めてやってきた村で過ごした3年3か月は、松本さんにとって「選ぶ」ための時間になりました。
村の人たちとの活動、建築の現場で気づいた自分に足りないもの、そして古民家で開いた初めての個展。建築とアートの間で迷いながら、ポセミンがだんだん大きくなっていった日々を聞きました。
この回の話題
| 時間 | 話題 |
|---|---|
| 00:03 | 前回のふり返り。大玉村、築250年の古民家へ |
| 01:05 | 畑の手伝いと、藍染めの団体 |
| 02:05 | 震災のあとに始まった、村の藍づくり |
| 03:05 | 村の本の表紙を描く |
| 04:09 | 村での講演、小学校での授業 |
| 05:20 | 大玉村で暮らしたのは3年3か月 |
| 06:26 | 建築とアートは、両立できない |
| 07:29 | 建築家に求められる、たくさんの力 |
| 09:38 | 自分らしくいられる仕事を |
| 10:38 | 農業は、自分が食べる分だけ |
| 11:39 | 東京のグループ展で、ポセミンが大きくなる |
| 13:42 | 古本市で「ご存じポセミン」 |
| 15:48 | もう一度、建築に戻る |
| 16:51 | 決め手は、現場での実務経験 |
| 17:53 | 古民家で開いた、初めての個展 |
| 20:07 | 縄文と同じ方法で焼いた器も |
| 21:10 | 大玉暮らしのまとめとして |
| 22:13 | 須賀川との縁は、路上販売から |
大玉村での暮らし
大玉村での松本さんは、大家さんの畑を手伝いながら、藍染めの活動をする団体にも参加していました。村で藍を育て、収穫し、藍染めの体験を開く活動です。
藍の栽培は、震災のあとに始まったものだそう。植物が放射性物質を取り込むといわれたことがきっかけでした。メンバーは東京に住む人が中心だったため、コロナ以降は来られなくなり、村に住む限られた人数で続けることになったといいます。
村の本の表紙と、小学校での授業
建築家の佐藤研吾さんは、当時、大玉村の地域おこし協力隊。大玉村についてまとめた本をつくることになり、その表紙のイラストを松本さんに依頼しました。大玉村のものを散りばめたイラストを描き、本は村のすべての家に配られました。
それをきっかけに、村で講演をする機会も。移住して何を感じたか、どんな活動をしているかを、村の人たちの前で話しました。聞いてくれたのはおじいちゃん、おばあちゃんが多かったそうですが、「ぜひ小学校でも」と声がかかり、村の小学校で授業もしました。
このころはまだ、ポセミンは登場しません。イラストを描く人であり、村の人が気づいていない村のいいところを、移住者の目線で伝える人。そんな存在だったといいます。
建築とアートは、両立できない
農業、建築、アートの3つを目指してきた松本さんですが、大玉村での日々の中で、建築とアートは自分には両立できないと気づいていきます。
以前、設計事務所で働いたときは、絵を描く時間がまったくありませんでした。中途半端に建築に関わるのも難しい。そして佐藤さんのもとで働かせてもらう中で、アートと建築を両方やるには、こういう力が必要なんだ、と身にしみてわかったそうです。
建築家に求められる、たくさんの力
建築家は、本当にたくさんのことを求められる仕事です。
- 設計
- 大工さんとのやりとり
- お金の計算
- 行政とのやりとり
- 営業
- 依頼主に「この人なら任せられる」と思ってもらえる言葉や態度
建築を続ける人は、きっと足りない部分を自分に合わせて修正していく。でも松本さんは、自分の人格をあまり変えたくなかった。「甘いかもしれないけど、自分はこのままで行きたい」。より自分らしくいられる仕事をしたいと思うようになりました。建物ひとつ完成させるにも時間がかかり、5年、10年単位の修行が必要なことも、理由のひとつでした。
ちなみに農業は、もともと仕事にするつもりはなく、自分が食べる分をつくれたらいい、という考え。だから迷いは、建築とアートの間にありました。
ポセミンが、だんだん大きくなる
答えを出せたのは、大玉村に来て3年がたったころ。それまでの間も、1年目に描いた絵が東京のグループ展に出て、そこでつながった人から次の展示へ、と東京で展示する機会が増えていきました。
建築の絵の中に、ちょこっとだけ乗っていたポセミン。それを見た人から「ポセミンがメインのものも見てみたい」と言われたのか、ポセミンと建築の「ダブル主演」のような絵を描き始めます。
古本市で「ご存じポセミン」
もうひとつのきっかけは、佐藤さんの設計事務所の中にあった古本屋さん。福島の古本市などのイベントに出るときに手伝いに行っていたら、「何か出してもいいよ」と言ってもらえたのです。
そこで、ポセミンのステッカーやしおりをつくって販売。当然のように「ご存じポセミン売ってます」と声をかけると、お客さんは「何だったかしら」と言いながら買ってくれたそうです。ポセミンと過ごすのが楽しい、と思い始めたのはこのころ。そこからまた人がつながり、ポセミン単体でイベントに出るようになっていきました。
最後にもう一度、建築に戻る
それでも、建築は捨てられない。そんなとき、須賀川で、今アトリエとして使っている物件のオーナーさんと出会います。きっかけは、友人が見つけてくれた路上販売の場所でした。話しかけてくれたオーナーさんが、設計者を探している物件があると言い、その日に見学。松本さんが佐藤さんを紹介し、そのプロジェクトに松本さん自身も加わることになりました。
絵をいったん止めて、建築にがっつり関わる。「これを最後にして、決めよう」。働いてみてわかったのは、やはり合わない部分があること。特に行政とのやりとりがとても苦手だったそうです。須賀川に引っ越すころには、アートでいく、と決めていました。そしてアートでいくことは、イコール、ポセミンでいくことでした。
古民家で開いた、初めての個展
ポセミンをメインにした最初の展示が、大玉村を離れる前の初めての個展です。会場は、住んでいた古民家そのもの。1か月間、休みなしで開き、自宅であることは言わずに、実は2階で寝ていたそうです。来場者はのべ300人近くにのぼりました。
当時29歳だったこともあり、20代の集大成のような展示に。建築の絵、ポセミンの絵、そして西会津でのアーティスト・イン・レジデンス(滞在制作)でつくった、縄文人と同じように野焼きで焼いた器も並びました。
ポセミンの姿は、ほぼ今の形に。物語もついていました。自分で管理する畑で感じたインスピレーションも作品にし、大玉村での暮らし、福島への移住のすべてをまとめたような展示になりました。このとき出会った人の中には、今もつながっている人がたくさんいます。
3年で村を離れることは、最初から決めていました。次に行くところがない、と思っていたところに、須賀川のアトリエの話がふわっと現れた。いよいよ、須賀川での日々が始まります。
印象に残った一言
自分の人格をあまり変えたくなくて。甘いかもしれないんですけど、自分はこのままで行きたいって思っちゃったんです。
前後の回
出演者

- 松本悠以:アーティスト、作家、畑の仕事をする人。「循環」「腐る喜び」をテーマに、ポセミンが登場する作品をつくる。Instagram
- はな & 隆志:移動販売の珈琲屋「GALATA COFFEE」を夫婦で営む。ウルトラFM「サンライズすかがわ」月曜パーソナリティ
